捧げること

 本日は礼拝にて、イサクを捧げる話であった。(創世記22章1〜14節)

 神様を信じているのに「不可解」なことが起こるとき、
それは次の段階に導かれる神様のみ手であるということだった。

 私にとっても、自分で握りしめていたものを手放しなさい
と言われることがあった。そんなとき、神様は私を新しい道へ
と導かれようとしている。

 大事にしていたものを「手放す」のはとても苦しいし、悩む
ことである。しかし、その悩みの中にあっても神様は共に
おられることを〜忘れてはならない。

 思えば、「すべて」は神様から頂いたもの。私達はこの世を
旅立つとき「何一つ」として持っていくことはできない。
 「ささげなさい」と言われるたびごとに、私達は再び原点
に帰り、「謙遜なもの」にさせられていくのかもしれない。

 神様は私達の「内面」を整えようとしておられる。その悩みを
通して、以前とはより違った見方で日々の出来事を受け止める
ものとさせられていくのかもしれない。

 とするなら、「悩み」とはむしろなくてはならないものであって、
「悩み」があるからこそ、私達はより成長させられていくもの
なのではなかろうか。

 おそらく何歳になったとしても私達は「悩み」続ける。
それでこそ、私達は自らを誇るのではなく、「生かされている」
自分を見つめつつ、より深い感謝を持って日々をすごせるのかもしれない。