人生の目的とは・・・?

 礼拝での話はヨハネ10:22〜33

 私達はこの地上で「自分探しの旅」に出かけているのかも
しれない。自分は一体何者か。自分はどこから来てどこに
行くのか。そして、自分は「なんのために」生きているのだろうか、と。

 誰もがその答えを見つけに、人生の馳せ場を生きていくのであろう。

 異なる文化に育った人々たちにとってはそれは特に強いのかも
しれない。自分の本質は一体何なのだろうか、と。

 聖書の世界では、同じように異なる文化に育ちながらも、
将来神様のご計画の働きのために用いられた多くの偉人達がいる。
アブラハム・ヨセフ・モーセ・ルツ・ダニエル・・・)

 例えばモーセは自分の生まれ育ったエジプトから離れ、
失意の40年間を過ごす。そして80歳のときに、燃える柴に出会い、
「今、行け」という神様のみ声を聞き、人生の転機を迎える。

 そして彼は様々な奇跡を通して、神なる方を深く知り、
体験し、約束の地には入れなかったが、彼の人生を享受すること
になる。

 そこで彼にとって、人生とは〜わたしはあなたと共に居る〜
という「神を知る」ことであった。

 もし神ご自身が彼の人生に介入なさらなければ、彼には自分の
人生の意味を悟ることはなかったのであろう。すなわち、
彼の人生の意味は、神様と共に人生を生きて初めて明らかに
された、のだ。

 同じように、私達もまた「自分の人生」を生きていくと
思っているし、その意味を捜し求める。その旅に終わりは
あるのだろうか。

 もし私達が自分の内なるものを追い求めていくとするなら、
むしろそこには欠けと・失敗とを見出し、失望するのかもしれない。

 しかし、自分の外なるものによって生かされ、神の愛の世界の
深さを知り、喜んで生きていけるとするなら、もはや私達は、
人間の力によって「がんばる」必要はなく、足りないものに心を
奪われる必要も、失われるものにより頼む必要もないのかもしれない。