第2回「講座」より(その2)

新しい家庭を創っていくために、私達は話合わなければならない。
もともと違った環境で育ったものだし、考え方や価値観も異なって
当たり前。そんな中で時には意見の食い違いから喧嘩をすること
もあるだろう(冷静か、激しいものかは別として)。

でも忘れてならないことは、一日が終わり床につく前までには
「和解」をしておくこと。そのためには二人は努力しなければ
ならないであろう。もしそこで起きた「火種」が放置されていく
としたら、その後へ降り積もっていきゆくゆくは・・・と発展し
兼ねない。

二人は「心と心が結び合う、同労者」なのだから。

二人にとって、問題となるのは例えば「言葉」である。

(妻が夫に向かって言ってはならない「言葉」とは・・・)
夫の「稼ぎ」について、とやかく言うこと。
「これだけしか給料をもらってないじゃない。もっと働きな
さいよ」
男性にとって、外から収穫を携えて来ることは本質的な働き
である。それを「認める」ことが出来ないのであるなら、夫は
何のために働いているのか、存在意義を問われることである。

(一方、夫が妻に向かって言ってはならない「言葉」とは・・・)
(例えば)「片付いていないじゃない」
女性は男性とは違い、体調・感情には一定のリズムがある。
男性は基本的にそれを理解しておかなければならない。
時には調子が悪くて、家のことに力を入れられないときもある。
そんなときに、「片付いてないじゃない」と言うことは酷である。

私達は関係を「壊す」言葉ではなく、関係を「築く」言葉を
話していくことが大切ではないか。

また特に、クリスチャンの夫婦に対してであるが、
「み心」(二人を引き合わされたのは神様のご計画である)と
分かるかどうかは、結婚をしてからまだまだ後の話であること。

夫婦の結婚が神様の「摂理」(ご計画)であるかどうかは前もって
分かるものでは必ずしもない。夫婦はその後「節目節目」に
おいて二人の歩みを振り返ったときに、み心であったと「理解」
していくことになるだろう、と。
              (・・・牧師の話より、ぷる加筆)
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寝る前までに「和解」すること、一つのチャレンジだろうなと 感じる。寝る段になって気まずくなり、背中を向けて寝て しまうこと、は時にありそうだから。折角出会わされた二人 である、「火種」は小さいうちに消しておきたいものである。 (言うは易し、行うはなかなか難し・・・) また、二人が夫婦になることが神様のご計画であったと「後で」 分かるものだ、というのには慰められる気がする。ついつい、 結婚する前から私達(クリスチャン)は「これが神様のご計画です か?教えてください。この相手でいいのですか」と神様を ときに問い詰めてしまっているのではないか、ということである。  もちろん二人によっては、「あなた達二人でよいのですよ」と 悟らされる(聖書のことばとか、状況とか)こともあるのだろう と思うのだが、それはそのときの「理解」であって、その後より 理解は「深められていく」ものなのであろう。
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(つづく)