学び3回目(その1)
エペソ5:22〜33より 「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」 「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた ように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」 夫も妻も神様の前には等しい存在。しかしながら家庭の代表はあくまで「夫」。 夫が家庭の意見の代表であり、責任を持つ存在である。例えば聖書では、 リンゴを最初に食べたのはエバ(妻)であるが、神様はアダム(夫)に 責任を問うている。「あなたはどこに居るのか」 夫婦の象徴的な場面は〜ミレーの「晩鐘」 http://www.salvastyle.com/menu_realism/millet_angelus.html 夫婦は ・共に神様の前にあり ・互いに向き合い ・「外」に出て行く ことを通して「つながって」いく存在であること。 夫婦は家庭の様々なことに対して「祈り」をもって進めていくことが大切。 また、献金は経済の面において、二人の信仰のバロメーターになる。 経済の面においても、私達は「自分で」働いたものではなく、神のご支配 の下で「働かせていただいた」者である。その代表として一部を「初もの」と して捧げること〜は神様への感謝のしるしであること。 ※頭で分かっていたつもりであるが、はっきりと意識することがなかった 様に思う。申命記26:1〜11 「初物を主にささげよ」 http://www.ubf.or.jp/modules/dailybread/dailybread-20051119.html 教会では「十分の一献金」と言われるが、「律法的・形式的」になるのを 危惧していた。献金用の封筒に入れて献金したあとには、封筒が 返ってくるが、それに「金額」がメモされるのがなんとなくイヤであった。 というのも、その金額を見て〜知らないうちに心の中で「私はこれだけの ものを捧げたのだ」と言って誇りたくないからである。私は弱いものだ。 とともに、月に一度に捧げるというのに抵抗があって毎週ごとに献金を 分けていた。というのは、月の始めに一度に捧げた場合、残りの3・4週の献金 ではそれより小額になるだろう(きっと)。そのとき、心の中で 「もう捧げるものは捧げたのだから」という誇りをやはり持ってしまうので はないかということである。 それぐらいなら、その週その週に分けて献金をした方がよいのではないかと 考えていた。 とはいえ、一方で「週ごとに捧げました」という誇りにもなるのかもしれない。 どうやるにせよ、結局は「誇ってしまう」。やはり私は弱い存在だ。 とにかく、給料というのは月ごとにいただくものである。 いただいて「まず」捧げる、ということは自然である。 先生から指摘されたが、自分の中で無教会的な考えが残っているのかもしれない。 いずれにせよ、「ささげる心」がまず大事なのだろうと思う。