とりなし

今日の礼拝では、創世記18章後半から。

アブラハムは甥のロトが住んでいるソドムが滅ぼされない
様にと神の使いにとりなしを願った。

そういえば北海道時代、背後で祈ってくださっていた方が
いらっしゃったことを後で知らされ、嬉しく思ったことが
あった。

私自身も「とりなし」祈られていたものだ。
今度は私が誰かのことを覚えて祈るものとさせられて
いる。それがいつ、どのような形で表されていくのかは
分からないのだが、神様はなんらかの答えを下さるのだ。

淵田美都雄 中佐の自叙伝(講談社)の話も聞いた。
この方は真珠湾攻撃の総隊長をやった方であるが、
ユタ州で捕虜になった時、収容所にてマーガレット・
コベルという令嬢が当時の捕虜達に献身的に世話をして
くれたということだ。

マーガレットは両親が日本の宣教師であったが、戦時下
の日本から国外退去させられてしまう。その後フィリピン
にて宣教をするのだが、そこで支配していた日本の軍人
達にスパイと疑われ斬首されてしまう。その直前に、
日本人の前で何かを「祈った」。

斬首されたと聞いたマーガレットは当初日本人を憎んだ
様であるが、その後父母の「祈り」の話を聞き、胸を打た
れ、自分も日本人のために働こうと決心した。

その話を聞いた中佐は心を打たれ、当時読んでいた聖書
の箇所で、マーガレットの父母が何を祈ったのかを
悟ったという。

主イエスが十字架につけられたとき、兵隊達の前で祈られた
「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分で何を
しているのか、分からないのです」

ローマ8章:31〜34節にも似たような箇所がある。
キリストが私達のためにとりなし祈られている、こと。

信じる私達は、いまこの世でどのように生きるべきなのだ
ろうか、主は私達に問うておられる。

 神のかたちを失っている世の中で、私達が手をこまねいて
〜神の裁きが来るのをただ待ち続けるのか〜それとも、
〜とりなしの祈りをもって〜この世を少しでも神のかたちに
変えていこうと取り組んでいこうとするか、を。

 とりなし、とはとても忍耐の要ることなのであるが、
また気持ちを新たにして、祈り続けたい、と感じた。