前夜式

 またはお通夜、というのだろうか。

 式の中で、なくなった故人の片鱗を伺い、たしかに
信仰が受け継がれているのだと教えられた。

 「お顔」はとても穏やかで、まさに天国へ「凱旋」された
のだ、と察することができたのだった。

 もし私が父親となったなら、自分の子供達に〜自らが
信じる神様をたしかに伝えていくことができるだろうか。

 子供達に対する親の影響力は計り知れないものがある。

 時には自らの生き様を通して、時には祈りによって、
「たしかに生きておられる方」を伝えることができる
だろうか。

 親が子供に残してあげられるもの、それは目に見える
財産ばかりではないだろう。目に見えないもの、そして
いつまでも残るもの、「それ」を与えることができるのだ。

 「それ」がゆるぎないものであるならばあるだけ、
子供にとっても「生きる力」となっていくことだろう。

 話は変わるが、TVにて「ホームレスになった中学生」
の話をやっていた。主人公は小学生の頃、最愛の母親を
なくし、父親は一家を「解散」する。いつしか母親が「本当」
になくなってしまったということを「実感」したとき、
主人公は生きていく意味を見失ってしまう。

 そんなときに出会ったのが、高校の教師であった。
その教師は彼に「生きる力」を与えてくれた。

 彼は再び「生きる意味」を見出すことになる。
それは母親から頂いた「見えないもの」に対する恩返し
なのかもしれない。彼が求めたのは、自分ではなくむしろ
母親が誉められることだった。

 思えば、神様から生きる力を頂いた私達もいつしか
神様に恩返しをしていくものとさせられるのかもしれない。

 受けたものは・・・与えるものに。