悩みを通して…(長考)

とりあえず、思うこと。
自分のなかでウズウズしていること。
まちがってるかもしれないけど。
メモ書き。文章考。執筆途中。

 神様は「悩み」を通して、私達を新たな「冒険」へと駆り出し、
私達の「世界」を広げようとされているのではないか・・・。

悩みを通して、自分の「思い通り」にはいかない、自分の「限界」
に私達は直面せざるをえない。

そんなとき、私達に出来ることはなんなのだろうか。

私は・・・自らの「限界」に涙し、そこにとどまり、「うずくまる」。

・・・しかしながら、そこにとどまり、「もがいている」うちに、私達は
自分の枠の「外」に、導かれていくのではないか。

だとしたら、それが新たな「冒険」という以外になんと言えるだろう。

願わくば、「悩み」を正面から受け止め、そこになお働いておられる
神の御手に信頼しつつ、一歩踏み出していくものとされたい。

なおそこでの「信頼」とは「おっかなびっくり」のときもあるし、
「まないたの上の鯉状態」のときもある。
(どうにでもして下さい状態とでも言えるだろうか)

「わたしの恵みはあなたに充分である。というのは、
わたしの力は弱さのうちに現されるからである」
たしか第Ⅱコリント、2章9節?

ここ最近思うことは、自分は「怖がり屋」であるということだ。

目の前になにかはっきりした道が「見えたら」、歩もう、
ちゃんとした見通しが「立ったら」、歩もう、とかしている。

でも、本来、人生一人ひとりの道筋は、そんなに単純なもので
あろうか。一人ひとりにとって、これからどう歩んでいくか、
なんて、だれ一人としてはっきりと検討がつく人はいないのでは
ないか。どこかで人は一抹の「不安」を覚え、現実への海へと
「漕ぎ出す」。

途中で風が吹いてくるか、波が大きくなるか、ドキドキしながら。

でも、そこで出合った「出来事」の一つ一つとの出会いは、
私達に乾いた砂漠の上でであった「オアシス」の様に、ひと時の
輝き・慰めの雫をもたらすものだ。

そこでの出会いを通して、人生に一つ一つ、その人なりの
「くさび」が打ち込まれていく。

その時、私達は初めて、自分が「生きているんだ」と、
実感させられる。

いや、「生きている」というのは傲慢なのかもしれない。

私達は、もはや「生かされている」自分を発見していくだけである。

自分の力ではなく、自分以外の大きな力によって。

それを私は自分を創られた「神」と信じる。いや、信じさせられる。

神は私の人生において「私が神ですよ」とはおっしゃらない。

むしろ、一つ一つの出来事を通して、私達を「生かす」。

私達は、そこで「自分で生きた」ということもできるし、
「自分は生かされた」ということできる。

結局最後に残るのは、傲慢か、感謝か。

人はそれを一人ひとり、「選ぶ」ことができるのだろう。

私達は自分の人生を「どう」生きたいのだろうか。

「不満」か。「傲慢」か。「感謝」か。

「出来事」とは一体なんだろうか。

それは、私達に人生の上に現された神の「御手」では
ないか。

そして、その「出来事」に対して私達は、どの様に
歩んでいくか、試されるのかも・・・しれない。

「人よ。何が良いことなのか。主は何を求めておられる
のか。それはただ公義を愛し、へりくだって、あなたの
神と共に歩むことではないか」

多分、ミカ書6章6〜8節

なんか思いつくままに書いてるなー。ボソボソ。