自分とバレーボール
本日は午前中は部活動へ。
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現在はバレー部の顧問をしているが、指導というのは
なかなか難しいものだ。
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自分も以前バレーを経験していたものだが、訳あって
途中で退部せざるをえなくなった。それからというもの、
バレーにはなんとなく引け目を感じている。
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その自分が今バレー部の顧問をやっているとはなんという
巡り会わせだろう。もし、こうなると分かっていたなら、
ちゃんとやっていたのになぁ(笑)なんて、ついつい思って
しまう。
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とまれ、結局は自分で招いたことなのかもしれない。
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高校でもバレー部だった頃、自分はあまり成績がよくなかった。
だから、両親はそれをとても心配して、当時の担任の先生に
相談し、結局は部活の先生にも話をすることになり・・・
半強制的に部活をやめた。でも、親のせいだけではなく、
当時の自分は部活をやめたらきっと、自由な時間ができて
その分「勉強」なるものをやるに違いないと思い込んでいた。
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いざ「ヒマ」な時間が出来ると、ある意味「バレー馬鹿」で
あった自分はやることがなくなってしまった。
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そんな自分が勉強なんていうものに集中できるわけがない。
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興味は別なものに向いていった、というわけである。
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そして、人生とは不思議なものよ。部活動当時背が低くて
ベンチを暖めていた私は、部活動をやめてから背が高く
なってしまっていた。
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こんなことなら・・・と再び後悔した。
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その後、時折夢を見ることがあった。部活をやめたはずの
自分がなぜか夢の中ではバレーをやっている。心の中では
未練が残っていたのかもしれない。不思議なものだ。
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そんな自分が・・・バレーと関わることになった。
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部活動をやっていたのは17歳の頃、就職したのは31歳。
バレー部をやめてからはや、14年の月日が流れていた。
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そんな自分には「負い目」がある。それは、「やって見せる」
ことはできるが、「教える」こととは別だということ。
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「指導」するのはなかなか難しい。
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何が必要なのか、ひとつひとつの練習には「意味」がある
はずだし、あるべきだ。もしも楽しみのためにやっている
とするならそれでもいいのかもしれないが、それでは何か
物足りない。やるべきなら「極める」べきだろう。
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そんな自分が居て、でも、部活動を指導する勉強にも
あまり時間が割けない自分がいて、ずっと葛藤していた。
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学校の先生はなんでこんなに忙しいんだろう、と不平を
言っていた。運動部を担当する先生と文化部を担当する
先生の負担は、どうも違うように感じてしまう。
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そんな中で自分の力の限界も感じる。時には会議もあるし、
生徒指導だってあるし、いつもいつも部活に関われるわけ
でもない。専門の教材研究だってしなければならないし。
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とはいえ、そういう中でもいろいろと指導してくださる
先生方との出会いがあった。先生方もそれぞれにお忙しい
だろうに、若輩の私にいろいろと教えてくださった。
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それを時にノートにメモした。でも次に自分が教える
ときは忘れていたりする。ときに何となく指導してしまい、
生徒には申し訳ないな、と自己嫌悪をいだいたりもする。
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そんな中でも、少しは形になってきたの・かもしれない。
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まだまだ足りなさを感じている・・・が。
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私とバレーボールとの関わりとは一体どういうもの
なのだろう。
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そもそもは、兄が始めていたのがきっかけだった。
兄は背が高い方で、たいがいエースをしていた。
その兄の後を追うかのように、背の低い私はバレー部に
入部した。運動神経が兄ほどではなかったのもあるし、
背が低かったのもあって、スパイクを打って入るのは
なかなか難しかった。高校に入っても背の低いのは
あまり変わらずに、覚えているのは新人戦で「ピンチサーバー」
をやり、連続10点ぐらいの得点をしたことだ。背の低い私は
「相変わらず」ベンチを暖めていた。
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そんな自分だから、できる人よりは少しは出来ない人の気持ちには
敏感、かもしれない。スターティングメンバーで出ないとは
うすうす分かっていても、なお練習する人の気持ちに。
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私は一体何が言いたかったのだろうか。
思いつくままに書いてしまった。
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苦労はそのときはつらい、と思えても、いつかは役に
立つ時が、ある、のかもしれない。それが直接か間接かは
分からないが、時には、他の人の気持ちに、少しは敏感に
なるのかも、しれない。そんなとき自分は、泣く人と共に泣き、
悲しむ人と共に悲しむ、ことができる、のかもしれない。
いつもいつも、というわけではないにしても。